今回、臨場感重視の表現になっております。
いくぶんはこちらを読了した影響ではありますが。
『あんたは金遣いが荒くて贅沢ばっかりするから』
なるたけ無表情を心がけて顔をあげる。あんたって誰のこと?
私だろうか。確かにほかに、誰もいない。
兄は朝のウォーキングに出かけて、まだ帰っていない。
なにを言い出すのだろう、と言うやや反抗的な気持ちと、
どういう流れなのだろう、といぶかしむ気持ちが完全に同居している。
『むかしからおばあちゃんと言いよったんよ
あげん本のじょう読んで家のことしきらん娘は嫁御に出されん
親はどげんしつけをしたんじゃろうかっち笑われる』
おとなしく、つくりかけの仏様の御膳に集中することにする。
こういうときは、水を差さないのがいちばんだ。
いちばんではないかもしれないけれど、私の取りうる次善の策だ。
相手の目的がわからない以上、とりあえず態度保留が鉄則。
(ここにたどりつくまでに長い年月がかかりました…)
まあ、それなりになんとかなってはいるじゃない。
理想の娘ではまったくまったくないけれど、でもまあ、
それは(ある意味)私の責任かもしれないけれど、
悪いことではないわよきっと。
もちろんそんなことは言わない。粛々とオクラを刻む。
『あんたたちの時代はこれからどげなるかわからんのに』
うん。
『お金があるわけでもないのに』
うんうん。
『なんか知らんけど海外じゃなんじゃってぜいたくんじょう言うち、
あそんでばっかりで、大事なお金をつこうちしもうち』
うーん。
『ぢなしじゃわ。けとろくじゃわ』
このあたりの(方言の)濃さになってくると、読み込みに間が生じる。
この街から離れた時間の方がもうとっくに長いのだ。
ダイレクトに響かない、そのぶんあたりがやわらかくなって、
ありがたい側面もあるのかもしれない。
『イタリアやらなんやら行かんでもよかろうが』
行かんでも、よいかもしれんねえ。
でもまあいいじゃん、行きたかったんだから。
それ13年まえだし。
『まあでも、もう10年ちかく行ってないよ』
うたがわしそうに私を見る母。まあ、しょうがないことだと思う。
海外旅行になんの興味もない彼女にとって
『明後日からちょっとLAに行ってくる。一週間で戻るから心配しないで』
とか
(そして0911テロが発生して20日近く足止めとなりました)
そもそも旅行と言うものは、添乗員がすべてパーフェクトに
面倒をみてくれるものだと信じ切っている彼女にとって
『添乗員いないよ。ツアーじゃなくて、航空券とホテルを手配したの。
大丈夫、同行者は旅慣れてるから心配いらない』
なんていう娘は理解の範囲を超えていたのだろう。
彼女に比べれば幾分理解のあった父親はもういない。
そもそも彼の初盆なのだから。
すこしずつ海外旅行に行く人が増えはじめた80年代。
ご近所のご夫婦が夏休みを利用して『スイス旅行』にいったことは、
界隈の大変なトピックだった。
お土産にくれたのは小さなナイフと、慣れない味のチーズのかたまり。
(たぶん、ビクトリノックスのペティナイフだったのかもしれない)
ハイジ! ハイジの国のチーズ!! と私と兄は盛り上がった。
だが味については、あまり良い記憶がない。
馴染んだプロセスチーズとは違っていたのだろう。きっと。
母は、その小さなナイフを大事に大事にしまいこんだ。
そして林檎や梨をむくとき、しかも「ここぞ!」という立派な
林檎をむくときにだけ持ち出していた。
子どもたちには決して使わせようとしなかった。
赤地に白の十字をみて
『これがスイスの国旗なんやち』
と、うたがわしそうに彼女は言う。
『うん、知らんかった? ここに載ってるよ』
と、地図帳を持ってくる私に、困ったように笑ってみせた。
『お母さんたちは戦後のどさくさの世代で、地理やらならっちょらんけん』
もっとも、彼女より三歳年上の父親はきちんと把握していたので
ちょっと眉唾な話ではある。いずれにしても30年以上前の話だ。
その小さなナイフは、小さな家のなかで燦然と光り輝く『舶来品』だった。
不思議そうに、まぶしそうに、このひとはそれを何度も眺めていた。
用がなくても、てのひらのなかで撫でていた。
彼女の手のなかでそれは、時代劇のお姫様の懐剣のように見えた。
それほど大事にしていた。
いまではアマゾンで970円かもしれないけれど。
『○○さんやら××ちゃんやらんごと、
お金の心配のねえひとがいくもんぢゃろ。あんたはちがうやろ』
悠々自適のリタイア世代、クルーズ旅行とかケリーのオーダーとかを
するような(数少ない)(そして遠い)裕福な親戚の名前が唐突に出てくる。
『お母さんはあんひとたちんごた、好かん。
くるるもんも高級品のじょうで立派過ぎるわ、
気持ちがこもっちねえわ。
ふつうに田舎の食べ物の方がよっぽど新鮮で、
なじんじょっち、おいしい』
昨日の晩ご飯は、その○○さんからのいただきものの魚久の銀だら。
おいしいおいしい、とおおよろこびして、あまつさえ
粕の残りを再利用するぞ!! サバをつけてみよう!
とはりきって小皿に取っていたけど、まあさておきましょう、そんなこと。
真剣にお仏飯を丸くする。
我ながら『まんがめし』のようにきっちりとできました。
さあいかがですかお母様、と差し出すと、
量が多すぎる、カチカチにしすぎるとあとで困るから
少なめにしてふんわり盛りなさい、と言うことでやり直し。
そうだ。このひとたちは、一日飾ったお仏飯も、
必ず再利用するのだった。
『お父さんも、さいごのほうはあんまり食べられんかったけん、
すこしでいいんよ』
そうか。そうだね。
お膳をお供えして、おりんを鳴らして、お線香をあげる。
今日も暑いねえお父さん。
昨日はすごくたくさんひとがきてくれてびっくりしたよ。よかったね。
思えば父は、生来の人なつこさの上に、
英語が大好きで英語をしゃべるのも大好きで、
観光地に行くとわざわざYOUをさがして
走っていくような人間だった。
『どこからきたの? 』『日本の何がたのしみ? 』『何日いるの? 』
などなど、ひとしきりの会話をたのしむひとだった。
それこそなつっこいわんこのように。
そしてさいごはかならず
『ENJO~Y!! 』
でしめくくっていた。
私からすると、それはほほえましいエピソードなのだけれど、
一緒に国内旅行に行くことの多い母は
『そのせいでいつも集合時間に遅れて迷惑になる。
みんなに「またガイジンんとこいっちょるで」って笑われる。
恥ずかしいやら申し訳ないやら、心底やめてほしい』
思い出なのだそうだ。両方とも彼の一部であるのだなあと、しみじみ思う。
ニュースをみても、原語に耳をすまして
『クリントンは○○っちゅう表現しよったぞ』
なんていつも気にしていた。
『不適切な関係』の時の(彼の)盛りあがりっぷりはすごかった。
娘はかるく引いていました。
だから何度か(なんども)海外旅行に誘った。
70代前半まで、つまり10年前くらいまではかなり熱心に。
飛行時間が比較的短くて手っ取り早いのはハワイだけれど、
どうですか。ホテルやお店も、日本語結構通じるらしいよ。
私が見つけて段取りましょう!!
『暑いの好きじゃないし、ゴルフもしない、リゾートに行ってもすることがない』
それでは西海岸はどうですか?
野球好きだよね、大リーグ観戦ツアーとかたくさんあるよ。
だれがいい? 野茂? イチロー?
松井だと東海岸だから、ちょっとフライトながいかな?
『長く乗るのはくたびれる。あさ味噌汁がないのは好かん』
朝ごはんで和食を出すホテルにしようよ。
『和食っちゅうてん、鮭しかなかろうが。
めざしが食いたいけんいい。アメリカやらいかん。遠い』
(それでも私がおみやげにしたシアトルマリナーズキャップは、
ずっとウォーキングの友だったようだ。ひとにきかれると
『娘がアメリカいっちこうちくれた』
と言っていたと、あとから聞いた。
イチローがシアトルからいなくなってからも、ずっと)
じゃあ中国行ってみようか。雄大でいいらしいよ。
万里の長城とか、あと桂林とか蘇州とか人気みたい。
中国語はわからないけれど、ツアーにしちゃえば大丈夫。
わたしがいろいろお手伝いしますよ。
でも結局どれも実現しなかった。
幾分腰が重かったことから、
もし万一(彼が思ったように)英語が通じなかったら、
彼の大好きな英語が嫌いになっちゃうかもしれない、
無理やり連れだそうなんて、単なる子供の自己満足かもしれない、
と思ってしまったからだ。
あるいは両親がイメージするような立派なツアー代が
(3-4人分すべてとなると)私には捻出できず、
誘いづらくなってしまったからかもしれない。
なにしろ私が個人で行く旅行は、
ホテル代一泊100ユーロ/100ドル(だいたい1.3万円以下目安)
エアー往復10万円以下が基準の、バックパックよりはいくぶん安心料上乗せ、
と言った類のものだから。
(オランダのエアーなんて往復5.4万円でした(当時))
それでも、行けばよかったねえ、お父さん。
もしかしてお父さんの英語が現地のでっかいひとに通じなくて、
ちょっとくらいしょぼんとするかもだけれど、
それを含めて笑い話にしちゃえばよかったねえ。
そう思いながら顔をあげると、母が私を見ていた。
『あんた』
はい。
『もう海外やらいかんやろ? 』
えっと。いや、それはどうかな。たしかに今パスポートも切れてるけど。
『行かれんわなあ。お金ないもんなあ』
うん、まあ、一面の真理ではありますがお約束は出来かねます。
行きたくなったら行くよ。
いや既に行きたくはなってるので、行くときはいくよ。
『行くなえ』
え。
『困るわあんた。お母さんが急に倒れちみよ。そんときどげすんのかえ』
驚いた。不安で不安でものすごく怯えた顔をしていた。
こんな母の顔を見るのは久しぶりだと思った。
いや、そうでもないかな、と、思いなおす。
私がかわすようにしているだけだ。
『おかあさんどっか悪いの? 』
『いんげ』
いんげ。方言のなかで、わたしの好きなことばのひとつだ。
ドイツの娘の名前のよう。
『だよね。持病はとくにないんでしょ、
血圧の薬も飲まなくてよくなったって喜んでたじゃん』
『そ、れ、で、も!』
じたんだ。彼女は思い通りにならないと割とすぐに地団駄を踏む。
どこか小学生じみて見える動作。
『お父さんだって、ちょっと足が悪くなって寝ついてから、
1ヶ月しかもたんやったんで!
2ヶ月前には、いっしょにみんなで温泉やら行ったのに』
はっきり言って、母の健康状態は私よりいい。断然いい。
健康年齢は40歳以下。脅威を通り越して軽く怖い。
昭和ヒトケタ生まれの80才越えにして、私を優に下回る。
健康診断でフルボッコに怒られるワタクシとは比べ物にならない。
それは私がいまだに朝ごはんにウィダーインだったりする、
情けない生活をおくっているせいでもあるのだけれど。
私にとって介護と言うことも懸念ではあるが、もしかしてこのひと
私より長持ちするのではないかと言う思いもずっとある。
お金の心配は(とりあえず現状では)ない(これについては亡父に感謝)。
健康上の不安も、取り立ててない。
年相応に疲れやすくなったとか、夜寝るのが早いとか、
(そうして夜中に目が覚めて眠れないとか)
そういうことはあるけれど、それ以上のものは特にはない。
友人も多く、たくさんの市民講座に参加していつも元気で賑やかそうだ。
条件だけ上げると、悠々自適そのものだ。
それでも、このひとは不安なのだなあと、そのとき思った。
痛烈に思った。
この瞬間までほとんど気が付かなかったあたりが
私の親不孝な点ではあるのだけれど。
年を取るというのは、そういうものなのかもしれない。
先の見えない下り坂。
どこまで続いているのかわからない階段。
半年間の講座を申し込んで、これが終わるまで
自分は元気でいられるのだろうかと思うのだろう。
思わずにはいられないのだろう。
確かに、父は本当にあっけなくいなくなった。
2ヶ月前には、2泊3日の温泉旅行に行って
『あのプリウスっちゅう車はすっげえぞ。全然ガソリンが減らんのやぞ。
メーターが壊れちょんごたった。
しかも全然音がせんのじゃ。わしは耳がとおなったんかち思った』
なんていっていたくらいだから。
しかしもともと彼には持病があって、それが一気に進行したのだった。
わたしには持病があるのだけれど、時折感謝することがある。
いつもどこかで意識することになるから。
じぶんの状態、じぶんのからだとの駆け引きあるいは相談。
なってしまったものはしょうがない、せめて一病息災でありたいから。
母は徹底して私をほめない。
いつも私の足りない部分を指摘し、あげつらい、責める。
たぶんほめると爆発するんだと思う。なにかが。
それはもちろん私にとってよろこばしくはないことで、
なるたけ接点を持たない方向でかわしかたを必死に探ってきた。
真に受けてはいけない。真に受けるわけにはいかない。
それはすべて、彼女の不安の裏返しなのだから。
冷たいようでも、それは他人が
(たとえ娘でも、自分以外の人間が)
引き受けられるものではない。
それは、彼女が彼女のなかで作り上げている不安の
強固な城なのでわたしにはやはりどうすることもできない。
気休めを言うことはできる。なにをすれば彼女の心が休まるのかもわかる。
でもそれをしても、それは一瞬彼女のなにかを慰撫するだけで、
またすぐに新たな不安を見つけてそこに気持ちをかたむけるだろう。
そして私が捧げた一瞬は、慰めの効力を失っても形だけは残って
わたしをつなぐただのくびきになるだろう。
とうてい私一人では埋められない欠落なのだ。すくなくとも
『コンビニ人間』の普通砲でへこたれてるような、情けない娘は
まったくの無力である。
彼女の理想たる、世間に出して恥ずかしくない
(かたくて立派なお仕事についている夫の)良き妻で
(夫の実家で大変役に立ってかわいがられる高評価な)良き嫁で
(こどもは2-3人、できれば女子男子男子、野球少年が望ましい)善き母で、
資格か何かを有効に活用して輝いているキャリアさんなどではないのだから。
『な。外国やら行くことならんで』
それは切実な、もしかすると悲愴な願いなのだろう。
長年連れ添った夫を亡くした、年老いた母親のせつなる願い。
どういえばいいのかくらいはさすがにわかっている。
でも。出来ない約束はしないのだ。
冷たいのだろうか。安請け合いしとけばいいだけなのだろうか。
そうかもしれない。
でもこの手の口約束に、わたしはしばられるタイプである。
結局反故にすることになって、苦しんだ記憶は結構ある。
そして母も、そういうことを決して忘れない。
『そうね、いまのところ具体的な予定はないよ』
希望はあるけれど。そっと胸のなかで言う。
そろそろ行きたいんだよね。
ちこのこともあるし。シッターさんに(不安なく)預けられるうちに。
確かに、私の旅行中に母に万一のことがあった場合、
(母と同じく海外旅行にまったく興味のない)兄では
わたしに連絡を取る方法がまずわからないだろう。
国際電話なんてかけたことないし、かけたくもないだろう。
たのみの夫も、都合をつけるのはむつかしい状況ではある。
それでもまあ、メールがあるから何とかなるんじゃないかな、と、
私は思うことにしてみる。
『まあ、パスポートもいま切れてるからさ』
『パスポートっちなんかえ? なんにつかうん? 』
ごめんね。行きたくなったら行くよ。きっと。
絶対に行かないなんて約束はできない。
行きたくなって条件やら状況やらゆるせば、きっと。
それくらいの自由はあってもいいでしょう。
もちろん、その『状況』にあなたのことも入ってるからね。
みごとに10年選手のガイドブックたち。なんとなく捨てられない本たち。
(『ロンリープラネット イタリア版』は内田洋子さんや須賀さんを読むときのよい副読本)
さて次に旅行に行くときは、果たしてガイドブックを買うのかな。
どうでしょうか。にしても台湾好きなのねえ…・
いいかんじにべこべこしてきたマイトランク。
いまの年齢で購入してたら、こんなにステッカーは貼らないかな。
いや変わらないかも。
74番と46番、そしてウフィツィ。イタリアに行ったのは2003年。
そこも含めてのメモリー。
『子供じゃないんじゃけん、なんでそげぇシールをべたべた貼るんかい』
いやお母さま、トランクはシール貼って目印にする(ひともいる)んですよ。
(確かにちょっと多いかもですけれど)
ん? と思っているねこ。
かわいいかわいいねぼすけにゃん。
距離に負けるな好奇心、というのはむかしの
JR東海のキャッチコピーだったと思う。
※1988年のようです。
負けるな負けるな。夏の終わりにそっと呟いておく。呟いてみる。