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ささげものについて考えてみた

ソチおつかれさまでした!!自分、そして心当たりのあるみなさま!! ふー。
時差5時間という微妙さが、なかなかあきらめのつかない大会でした。
次回冬季はその点らくちんだし、ブラジルはあきらめがつくのでよし。

そして職場のみなさんと
「冬のオリンピック、なんだか見ているとやたら分かりやすくておもしろい」
という話になり、それでは何故か? を検討した結果、
・道具を使ってやる競技が多い
・雪山や風景がきれいでテンションあがる
(いつ頃からだっけ、ブルーラインが引かれるようになったのって)
・勝負がすぐに決まる
・なんか楽しそうな種目が多い
あたりではないか、という仮説が成立しました(あくまで仲間内です)
ほぼ印象のみの素人の与太話ですけど、みんなでこういうの話すのは愉しいですね。
私は違うけど、この時期は週末ごとにゲレンデ通い、のメンバーが多い中での意見なので、
やや偏りがありそうな結論ですが。

私としては(周囲で)大評判だった「バイアスロン」を見逃したのが痛恨。
話を聞く限りではすごく面白そうだった。あとチラ見だったけど「クロスカントリー」も!!
やること多くていろいろメリハリがあって。

にしてもヨーロッパのみなさんのスピードを競うという命題にかける情熱と、
冬山競技のバリエーションの豊かさには心底びっくりしますね。
アルペン回転とかスーパー大回転とか、どこまで増えるんだこのバリエーション、っていう。

あと「愉しいそり遊びララララン♪」からはじまってるはずなのにどうしてこうなった、
というボブスレーとかリュージュとか。
そんななか私はほぼフィギュアに明け暮れた(そしてそれだけでもう手いっぱいもいいところ。まだ4大陸の女子とかみてないのに…)2週間でした。いやあつかれた。

以下主に女子シングルの感想です。やや厳しめでそのうえ(ポエムとかいろいろ)爆発しているのでたたみます。やみくもに長いし。はずかしいし(小声)




浅田選手にとってのトリプルアクセルが、スタートであり取り戻すべき場所なんだなあと、
つくづくと思いました。
そしてその意味で「点数のとれる安全策」を選ばなかったのは、
選手としての素晴らしい挑戦であり、尊重するべき姿勢です。
では失ったものは何なのか。
確かにフリーは素晴らしかった。
私も浅田選手のフローの演技をみたあとに、興奮気味にお布団に入りました。
いやいやいやいや、こうくるんだよ、この人ほんとにもう、と思った。

だからこそ、それではどうしてショートがああだったのか、それについて
誰も何もいわない現状を怪訝に思います。
天晴れミラクル復活真央ちゃん!の絶賛の嵐しか聞こえてこない。
※私はそんなにテレビを見る方ではなく、実況以外のスポーツ番組等を
フォローしていないので、もし事実誤認があったらごめんなさい。
違ってる方が勿論うれしいです※



フリー当日の公式練習の表情をみて、正直これはもうだめだ、と思いました。
うつろな目、不安げな表情、ふらふらと定まらない軌道。
素人が先入観を持ってみてるこんなことを言うのは申し訳ないのですが、だけなのでs
つくづくえらいことになったなあ、競技って本当にいろんなことがあるなあと思って見ていました。
スルツカヤやクワン、過去のいろんなスケーターのことが頭をよぎりました。

でもフリーの浅田はすごかった。
ポジションに着くまでは、それでもまだ不安げに見えたけど、
最初のジャンプへの滑走にはいったときにはもう気迫が違った。
ショート16位の浅田なんて記憶にない。二桁なんて順位は聞いたことない。
バンクーバーのあとの、まったくジャンプの決まらない時期だってこんなことはなかった(確か)
あそこからから少しずつ積み上げていって、ようやく届きそうに思われた4年に一度の夢、
それがほぼなくなったすぐ翌日に、気持ちを立て直すことは不可能としか思えなかった。
その状況であのフリーを演じきったのは素晴らしいことです。

でもそれでは、浅田が目指していたのは何なのか。
言うまでもなくオリンピックは採点競技です。ショーではない。
そして昔から一貫して芸術なのかスポーツなのか、という点でもめる競技でもあります。
様々な制約や基準の中、その場所で開く花であり夢。

彼女は繰り返し明言していました。一番いい色のメダルを取りたい、と。
その上で採点の上での有利も不利もすべて承知でトリプルアクセルにこだわり、
そのためのプログラムを組み、努力を重ねた。そしてそれは叶わなかった。

今回のコストナーのショートに私は胸がふるえました。自らの内側からにじみでてくるなにか。
それを彼女は優しく拾い上げ、繊細かつ優美なものにしたうえで、
力強く確固とした意志のもとに披露して見せた。見せてくれた。
自分の中にあるすべての善きものを差し出した。
その表現をすることをゆるされ、それを行う資格を与えられた、奇跡のような時間。
このときのコストナーは、まさにスケートの神様に愛されると思えました。
それは無私のささげもの。どんなに努力してて最上のものを差し出して、
それを神がお選びになるとは限らない。その選択をするのは神ご自身である。
しかし神は、コストナーのささげものをお認めになられた。
そのイメージが、あまりにキリスト教に基づいた解釈だったことに何より自分が驚きました。
まあ曲が『アヴェ・マリア』だったというのが大きそうだけど。簡単なひとね。

バッハ:音楽の捧げもの

リヒター(カール) / ポリドール


ささげもの。
私はこの言葉が好きです。犠牲、といういたましいニュアンスはそこにはない。
自分の内側の欲とか希望とか、そういうものすべて乗り越えて手放したあとに届く、
届けられる境地のような。それこそが夢。
目指してたどり着けるものではないうつくしいまぼろし。それこそが勝利。

浅田はトリプルアクセルに拘りぬいた。
グランプリファイナルでの彼女は本当に素晴らしくて、私は感動しました。
「15歳の頃の自分のように」トリプルを飛びたい、という強い執着を手放した結果、
彼女は彼女独自の方法でその境地に届いたのだと思った。うれしかった。

『ねだるな 勝ち取れ さすれば与えられん』
という言葉があります。

私はこの言葉を、単に自助努力推奨というよりも、
「与えられたものと違い、自らが勝ち取ったものには、
つかもうとしたものそのものよりも遙かに大きなものが与えられる」
と解釈しています。
浅田が挑戦の結果に掴んだものをうれしく誇らしく思っていました。勝手に。
まあファンなんてもとから勝手な存在ですけど。

でも全日本を経て
(私は全日本は調整試合だと思っていたので3位は気になりませんでした。
むしろ流してそれくらいが妥当かなと思ったほど)
構成を変えるとか、3Aを複数投入とかいう発言が聞こえてきて、少し不安になりました。
たぶんそれは、神に対する傲慢のように思えたのかもしれない。
※さがしてみたんだけど、ソースの確認ができませんでした。
マスコミの憶測や噂レベルの話を誤解していたらごめんなさい

高難度の演技に挑む。自分にしか出来ないことをする。
それはアスリートとしての姿勢として大変素晴らしい。
それがひとつの正義であると同時に、わかりやすい大業がなくても、
様々な要素を緻密に組み立てて精度を上げるという方法あるいは
戦略を採る選手も、同じように尊敬されるべきだと思います。
その精密さ正確さにおいてそれは困難で挑戦であるのだから。

ソトニコワもリプニツカヤも、自分の現状を認識してキャラクターを吟味したうえで、
それを最大限活かせる演技をしました。
たとえば華やかで若々しく力強いカルメン、あるいは襟の詰まった赤いワンピースを着た悲しげな少女。
そこには第三者の視点がある。
自分のやりたいこと、できること、それが相手にどう受け止められるかがバランスよく存在している。

私が以前ここで書いた、浅田選手に対して個人的に感じていた危なっかしさとは、まさにこのことです。
彼女には動機がない。その物語を語る外的な必然も内面を支える支柱もない
3Aを飛ぶ、素晴らしい演技をするというのは純粋な目標であるけれども、それだけ。
動機も必然性も、自らの中にしかない。
そのこと自体は悪くない。そんなのは人それぞれでしかるべき。
ただそれだけで貫き通すことの困難さに不安を覚えました。一フィギュアファンとして、勝手に(2回目)

かつて大ブームを起こしたサッカー漫画『キャプテン翼』の主人公・大空翼は
『サッカーはおれの夢だ』といいました。

キャプテン翼 1 (集英社文庫―コミック版)

高橋 陽一 / 集英社


ライバルたちがそれぞれに『負けられない理由』を背負っている中で、
主人公だけはそれらから解放されていた。
翼だけが、サッカーを負けても自分を取り巻く状況が変わるような要因を抱えていなかった。
それでも、自分の中の動機だけを理由に、彼は戦い続けました。まんがですけど。
おれはおれの為におれの夢をかなえる。なぜならそれがおれであり、おれの望みだから。
それは(1981年連載開始)時期の時80年代当時において、
新しさとしがらみから解放された溌溂さを感じさせる発言だったと思います。
30年も前(ワオ)のまんがを例に出して恐縮ですが、それはつまり、
拠って立つべき物を持たないということです。自分を支える柱が、自分の中にしかないということ。

浅田がそういうタイプの選手なのは知っていました。
彼女は戦いにおいて物語を必要としない、ただひたすら自分の『理想』への追求のみを追ってゆく。
それがつまり日本型の「求道者」ということなのだろう。
ヨーロッパ由来のフィギュアスケートというスポーツに対して出た
日本型の回答ということかしらと、とても興味深く感じました。
非常に平凡で安直な発想ですが、キリスト教的な絶対神を持たない日本人が
「よりどころ」をもとめたときは、やっぱり「道」方向になっちゃうのかー、と。

「自分・神(=絶対的な第三者の視点=この場合、演技をする支柱のようなもの)・自分の技」
という三点セットに対して出た回答が
「自分・(よりしろとして極めた)自分の技・なぜならその技術をここまで高めた精神性を自分は持っているから=道」
という回答に、胸がふるえました。なにこれすごい。
(このあたりちょっと自分でも暴走気味かもしれないと思わなくもないですが。勝手にふるえてろ)

日本人が真剣に取り組むと、やっぱりこういう境地になるんだ。
なんでもかんでも、知らないもの見たことないものに対して、貪欲かつ真剣にアプローチして
考え抜いた揚句に換骨奪胎する日本人の、フィギュアの解釈ってこれなんだ。

スケートの神様についてもそうです。コストナーの演技を見て、私の頭をよぎったのは契約型の神。
もっと言うならあまりにテンプレなキリスト教の絶対神です。
コストナーが差し出したものを、神は最上のものと認め、それゆえ受けいれてくださった。

それではフリーで浅田を見守った神とは? 
それはやはり、いつもそばにいて見守ってくれる神のイメージ。
努力を支えてくれる神。見守り、支え、後押ししてくれる存在。
(結果的にですが、失敗した人間にも)
「大丈夫だよ、ここで見てるから」と言ってくれるやさしい神。
安直なテンプレを当てはめているだけかもしれないけど。

そしてただ、今回のショートにはそのもろさがでてしまったように思えてしまいました。
やはり私はそれを非常に残念に思います。試合としてもですが、それ以上に、
そのことに対する、浅田なりの回答を聞きたかった。
当たり前のことですが、ショートとフリー併せて一試合なのだから。
でも野暮で思いやりのないことなのかなこれって。
お祝いムードに水差すなって怒られちゃうのかな、と逡巡しつつ、
ここにこっそり記録することにしました。


私は何が何でも浅田に勝ってほしかったという訳ではありません。
最終Gのフリーの演技をまだちゃんと見ていないので、
今回の結果が妥当だったかどうかは分かりません。
それでも仮にも「フィギュア大国」を自称するほどになり、
オリンピックに最大枠の3人を男女とも派遣する国のメディアが、
全くそれを報じないという姿勢に疑問を感じます。
オリンピックはお祭りだからもういいじゃん! 
失敗をほじくりかえすなんてひどい、といわれたら、ちょっとさみしいけど
「・・・・・・うん。そうだね、ごめんね」
って言いますけど。町田が初出場で5位というのはすばらしいこと。
それでは3位のテン君や4位のフェルナンデスとはどうちがったのか、とか。
女子のメダル順は、どういう評価基準で何がどう評価されてあの結果なのか。

ショートの浅田の無念、フリーの浅田の挽回を無駄にしないためにも、
感動したね、よかったね、というだけでない視点が必要だと思います。
浅田が現役続行するかどうかは関係なく、彼女のなしとげたことを理解するために。
そしてなにより、浅田に続こうと、胸を熱くしてテレビを見つめた次世代の選手たちのために。

ジャンプについては競技のこともの高梨選手のこともよく知らないのですが、
ただひたすらかわいそうだった印象があります。

私個人としては、一流アスリートの誠実さとか努力の成果とか、
ものすごく大切でうつくしいものを、一方的に消費するような風潮に疑問を感じています。
偉業を達成した彼ら・彼女らをキャラクターとして安易に分類して
わかったような気持ちになりたくない。尊敬を持って理解したい。

『愛することよりも理解することの方がもっと困難だ』
とは、たしかカート・ヴォネガットの言葉だったと思います(未確認)。
素人には、フィギュアは本当にわかりにくい部分もあるし、だからこそ物議をかもすことも多いです。
納得いかないこともあります。でも選手たちがその中で
懸命に切磋琢磨・日々努力をしていることを思うと、
私もすこしは理解するための努力をしようと思うのです。
だってこんな素晴らしいものを見せてくれるんだもの。

映画女優・ロミー・シュナイダーの言葉を岸惠子さんが紹介していた文章を読んだことがあります
「 『カット。ロミー最高だ、申し分のない演技だ。では今のをもう一度』
私を消耗するだけの監督の相手はもう嫌なの。やり直すのなら、何がだめだったのかを言ってほしいのよ」

巴里の空はあかね雲 (新潮文庫)

岸 恵子 / 新潮社



『愛と敬意以外は求めない』

DVD>トーチソング・トリロジー [団体向け] ()

紀伊国屋書店



このせりふが『理解』をあきらめたという宣言であることにようやく気づく。おそすぎ。



ささげものについて考えてみた_f0257756_21282.jpg

沈丁花のつぼみが少しずつ膨らんでいきます。
こんなにも強い赤なのに、開いたその花の内側は淡い色で可憐な印象。

時々電車の中で、シニヨンの少女たちを見かけます。
か細い手足に不釣り合いな大荷物、きりりと小さくまとめられたシニヨン、
ひらひらふわふわ声高にさざめている姿は本当に可憐で、
ちょうちょの世界に無粋にもこちらが紛れ込んでしまったように思えて、
なんだかこちらが緊張してしまいます(変態)。
沈丁花は、私には彼女たちのシニヨンに似て見えます。
もちろんそれがフィギュアとは限らず、体操とかバレエとかかもしれないのですが。


※付記※
よく考えたら、アマチュアスポーツ選手に『公式な答えがほしい』という要求するのも、
筋違いなのかしら…??
というわけで、『そういう問いかけやアンサーが聞こえてこない現状に対する違和感』
というあたりが妥当なのかも。
帰国後そのうちゆっくりどこかで拾えるといいな。とりあえず興味深く思っています。

by chico_book | 2014-02-24 02:04 | 日々 | Comments(0)

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