初夏というには少しだけ早い
この季節の植物たちは本当に明るい。新緑は内側から発光しているようで、なんだか圧倒される。
夜道で見ると、ほの明るく見える、街灯がいらないくらい、と描いていたのは大島弓子だったかな。
追記:すみません。確認しましたが、違っていました。たぶんこちらに収録の『サバタイム』だと思われます。
(引き続き未確認ですが)
家の近くに、銀杏並木の連なる坂があるのですが、まずはじめに若葉がおずおずと出てきて、
大丈夫だとわかると、ゆっくり堂々と葉先がほどけはじめる。ちょうどそんな季節。
美しいけど気圧される、、嫌いではないけど、及び腰になる。
無邪気にシンプルに好き、と言い切ることの難しい、そんな季節。
いつかの秋。いまの若葉が、つまりはこれに至る道に思えてしまうのだ。
イチョウといえば、『銀杏』が一般的。
『公孫樹』はまあまあトリビア的には有名だが、『鴨脚樹』という表記を知ったのはごく最近のこと
(近くの公園の銀杏の木にプレートがついてました)
なんでも、葉っぱの形が鴨の足に似ているからだそう。ほんとだ。なんとかわいらしい。
黄金の中にうずもれているようなはちわれにゃん。
しっぽは雄弁。
じつはふたりいたのです。影のように寄り添ってますね。仲良しにゃん。
このベンチの古びぐあいが大好きだったんだけど、公園再整備に伴う工事で撤去されてしまった(寂)
お手洗いとか街灯とか、いろいろ新しくなったのは嬉しくありがたいけれども、
にゃんずにとても愛されていたベンチでもあるので。
こちらは悠然。
ちこにゃも、うちにあがりこむ前は、この公園を優雅にお散歩してました。
当時ちこにゃには推定の飼い主さんがちゃんといて、
その方が『出入り自由ねこ』という方針なんだろうなあという認識で、
「あぁ、それにしてもかわいいねこだなあ(まあねこはみんなかわいいけど!)」。
なんて思っていましたっけ。
ついつい季節外れの写真を続けましたが、気を取り直して。あらためて、季節は春。
夜が目に見える速さで短くなっていき、それがまた心もとなさのひとつでもあるのですが、
朝一番に唄いはじめる鳥たちの声が日に日に大きくなってゆく。
春先からずうっと練習してきたホトトギスやウグイスが絶好調になるのも、まさにこの季節。
まだ明けきってない冷たい空気の中を、お茶を飲みながら息をつめて耳をすますのが好き。
(そしてごみを出して二度寝するのだ)
ちこにゃも、窓辺に走り寄ってくることあり。
それでも、昔よりは減ったかな。悠然と寝てることの方がずっと多い。
年を取って落ちついたのか、おうちになじみきって外への興味が減ったのか、たまたまなのか。
成長するものを見るのは楽しくもありますが、これから待ち受けていることの大変さに
気が遠くなったりもします。どんだけ老婆心何だと、自分でも思うのですが。
ああ、こんなめんどくさくてしんどい思いをいちからやるの君ら!
大変やねえ、みたいな。明らかに考えすぎで大きなお世話なんですが。
老婆心すぎる。我ながら。
こんな新芽にそんなことを思うなんて、明らかに考えすぎ。
マンション敷地内の植え込みより。どう見ても地面ジャックな感じで植えられてるラベンダー、
しかもこの写真ではわかりませんが、実はすごい大株。
小学生の時に『愛のポプリ』という本を清水(キヨミズ、とお読みください)買いして、なめるように読みました。
もちろんポプリという単語もはじめて耳にしたし
(「赤毛のアン」シリーズでは『サシェ=香料や乾燥させた花びらを入れたにおい袋、
と注釈がついていた時代)
さらにアンシリーズには、実に優雅な「ミス・ラベンダー」なる人物も登場するので、
とにかく単語のひとつひとつにワクワクした。途方もなく。
スパイスや香料なんて購入どころか手に入りさえしなかったのですが、
だからこそ余計に憧憬は高まった、と思う。
あと教会学校に行っていたので
『没薬』『乳香』『ヒマラヤスギの高貴な香り』
などのイメージがさらに再リンクしていたのかな。
美しい写真と、それに寄せられた詩のような文章にうっとりしていた(と、思う)。
既に手元にないのでおぼろげな記憶でしかありませんが。
当然、熊井明子氏が映画監督の熊井啓氏の夫人であることも知らなかったし、
更には熊井啓氏のこともまったく知りませんでした。
その10年後くらいに『ひかりごけ』を観てひっくり返ったうえに、
三国連太郎のまねをしまくるなんてことが、私の人生に起きるなんてことは、
まったく、まったくもって想像の範囲外だった時代のお話。
※笠智衆の戦前の判事服姿がたいへんにすばらしかった
そして、さらに言うなら
『ラベンダーやミントは、イギリスの冷涼な気候向きの植物なので
日本では北海道や信州の一部以外では、うまく育ちません』
と言われており、九州のこどもであったワタクシはおおいにがっかりしたもの。
地植えでそんなにメンテもされてうなさそうな、この大株を見るたびに思い出す。
そしてそれは単なる私の記憶違いか、それとも品種改良の成果なのかどっちなのかしら、
とぼんやり思う。そんなことと関係なく、花は毎年見事に咲きますが。
渋い印象のある松葉も、固くしっかりした印象のある松ぼっくりも、今の季節はこんなにも初々しい。
実家の玄関わきに植えられていた芝桜。野焼きのように一気に広がって咲くことを思い出す。
これも実家の庭にあったドイツスズラン。若い緑と白の組み合わせは清潔感があってとても好き。
水芭蕉とかカラーとか、初夏ならではの、緑の初々しい強さがあるからこその色合いだと強く思う。
そしてこの季節は、一日二日目を離したすきに、あっという間に花が盛りを迎える。藤もそう。
花の季節以外は、葉っぱの優しい、幹のしぶめな力強いツル植物という印象なのに。
見事すぎて逆に嘘くさいと、子供の頃の私は思っていた。
そう思うと「四季咲き」のばらって、大変な植物なのだなとも、思う。それは『お礼肥え』(花が終わった後にたっぷりあげる「おつかれさま」の肥料)という言葉が生まれるはずだわ。
夜は、まだすこし肌寒い。そんな季節の眠り方。
こんなみっちりしたいとおしいアンモニャイトを、いつかそおっと思い出すのだろうか。
by chico_book | 2014-04-28 02:37 | 日々 | Comments(0)